シューベルトの交響曲まとめ

 

フランツ・シューベルト(1797年1月31日 - 1828年11月19日)の交響曲には完成されたもの7つといくつものスケッチや断片があって、その大半はベートーヴェン交響曲第8番を作曲してから第9番を作曲するまでの約10年間に作られている。

 

むかしの楽曲解説とかだとなんか「ベートーヴェン交響曲の多大な影響のもと習作の域を出ない交響曲を6つ作り、最後に並びうるレベルのものを1つないし2つ作った」風な書かれ方が多かった(主観)けど、自分で聴いてみた感じベートーヴェンの少なくとも交響曲の影響はあくまで限定的で、どちらかといえばハイドンモーツァルト交響曲を模範としている印象が強かった。ベートーヴェンだと交響曲よりはむしろ初期の弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタあたりの影響が強そう。

初期交響曲6つに関してもいかにも習作っぽいのは第1番くらいで、どれもシューベルト特有の旋律の良さだけのものではなく、しっかりした構成とときにそこから逸脱してもみせる知的な面白さやセンスの良さが備わっていて、そもそもの方向性からしベートーヴェンと比べてああだこうだ言うのはナンセンスという気もする。

まあ正直そういう自分自身19世紀初頭のヨーロッパで本来メインストリームだったはずの作曲家たちの作品を知らなすぎて、青年シューベルトのものがそれらと比べてどんな具合だったのか、またベートーヴェンがそこからどの程度「浮いた」存在だったのか想像がつかないのであんまりあれこれ言えないのですが。

 

 

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File:Schubertiade 1997c back (detail).jpg - Wikimedia Commons

 

 

 

作品

1811年に当時14歳のシューベルトが試作した交響曲の断片で、30小節程度の序奏と第1主題を含むスケッチらしい。ピアノかなにかでさらっと弾いてみせてる動画でもないかなーと思ったけど見つかりませんでした。

 

1813年。シューベルト16歳の作品で、ベートーヴェン交響曲第7番と同時期にあたる。

モーツァルトハイドンの影響を素直に反映した作風。ウィーン古典派の交響曲らしいしっかりした構造がすでに十分備わっていて、演奏にもよるけど第1楽章序奏から吹き上げるようなフルートが目立ち、弦と管のあいだに微妙な音のぶつかり合いがあったり、再現部に序奏まで含まれたりといった創意工夫がある。

トランペットやファゴットにはけっこう過酷らしい。

 

1814年から15年頃。このひと2番でいきなり傑作をものにしてません?

弦が細いフレーズを執拗に繰り返してニュアンスの変化を積み重ねながら全体を駆動していくシューベルト交響曲の特徴がここでいきなり完成の域に達していて、構成は後期交響曲よりかっちりとまとまりがあり、それでいて茶目っ気がある。個人的お気に入り。 

 

第1楽章はいかにもモーツァルト交響曲第39番のパロディな堂々とした序奏からはじまって軽快な弦の主題に入るのだけど、この弦の主題が楽章を通してひたすら展開され続ける。もう提示部のあいだからずっと展開しまくりでなんなら展開部より展開してるし、提示部にコデッタがついててしかも提示部の最初とおなじような入り方するもんだから自分が今どこにいるのか一瞬混乱するし、むかしの楽曲解説とかで「習作の粋を出ない」みたいに書かれてるのを真に受けて消化試合のつもりで聴きはじめるといきなり沼に引きずり込まれることに。

第2楽章は主題となるメロディが魅力的な変奏曲。

第3楽章のメヌエットシューマンにも通じる重厚さがあったりなかったり。

第4楽章も第1楽章とおなじように提示部から主題を展開しまくった末にコデッタがつく。軽快な主題がたんたか展開していってけっこうな熱量に。 展開部は短いけどここにしか出てこない美味しい音形がある。

 

1815年。どの楽章の主題にも愛嬌があって第2番ほどには展開もしつこくない、楽しげな感じの曲。第2楽章が3部形式のアレグレットで緩徐楽章がないのは当時ベートーヴェンの「新作」だった交響曲第7番や第8番と共通。
全体的に木管がフューチャーされてるのだけど、このあたりシューベルトは当日この木管を誰が演奏する予定なのかわかっているうえで、そいつの顔を思い浮かべながら書いてるんだろうなって感じがある。シューベルト交響曲は彼の生前どのように演奏されたかあるいはされなかったか不明な点が多くてこれも俺の妄想だけど。

第2楽章の主題がかわいくて好き。

第4楽章は盛り上がりつつちょっと陰りがあってモテそう。

 

1816年。シューベルトが完成させた唯一の短調による交響曲で、『悲劇的』という副題も本人によるもの(形容詞副題をつけるのが流行ってたらしい)。

ハイドンの宗教的楽曲やベートーヴェン弦楽四重奏曲の影響下にあるように思わせる作風ながらユーモアも忘れていない。

第1楽章では展開部に入ったと思ったらちょろっとやってすぐ提示部冒頭の第1主題そのまんまに戻ってしまい「えっ今ので展開部終わり?」と思わせてからあらためて第1主題の展開に取り掛かる。

第4楽章は憂いのある第1主題も弦と木管の掛け合いがユーモラスでそこからじわじわと陰っていく第2主題も秀逸。提示部の終結が妙に大げさな分コーダでもその構成がそのまま使われていて、楽曲の最後に鳴らされる音は第1楽章最初の音と共通。

実際のところはわからないけどシューベルトの場合、短調交響曲といっても宗教的なニュアンスは薄くあくまで表現上の理由でこの調性になったという感じがする。のちの交響曲ではトロンボーンベートーヴェン以上に遠慮なく使いまくるし。

 

1816年。後期の2曲以外では昔からわりと演奏や録音される機会が多い曲。

クラリネットやトランペットそれにティンパニを含まない小規模な編成で、楽曲自体これまでよりお行儀のいいこぢんまりとしたものになっている印象。

第4番までは展開に対するアイデアを形式という枠組みのなかにこれでもかと詰め込む傾向があったけど、ここではだいたいの要素がすんなりと心地よく流れていく。

肩の力を抜いた結果なのか、あるいはむしろこれ以前がわりと身内向けなうえでより外面を意識した結果だったりするのか。

 

1817年から1818年頃。第5番より調子が戻ってきたような、あるいはむしろ根本的な「枠のとり方」みたいなとこから変わったような感じの曲。

第4番までのかっちりした楽曲構造のなかにあれもこれも詰め込んでちょっとお兄さん枠が歪んでますよみたいなのと、第5番のこれなら余裕あるけど中身がちょっと寂しくない?みたいなの両方を踏まえたうえで、じゃあある程度中身を詰め込んでも余裕あるように枠の区切り方変えてみるか、みたいなアプローチの変化がある。

 

第1楽章は序奏にいろんな音楽的要素が含まれていておどろく。以降は至極まっとうなソナタ形式のやつで、第4番までってあんがい若気の至りだったのだろうかとか思っちゃうと足をすくわれかねない。コーダで急に盛り上がるのはロッシーニのパロディ?

第2楽章はABABとかそういう感じの形式(わかんないのかよ)で、Aでひっそり演ってると思ったらBでドカンとティンパニが鳴り響くびっくり系緩徐楽章。

第3楽章はシューベルト初のスケルツォ。いうて今までのもぜんぜん素直なメヌエットではなかったが。第2楽章にしろこの楽章にしろ、これまでより率直にベートーヴェン交響曲からの影響を表出させているように感じる。特にティンパニの使い方とか。

第4楽章は掟破りのソナタ形式展開部抜き(そんな大げさな)。交響曲だとベートーヴェンの緩徐楽章に展開部抜きってのがいくつかあったけど、最終楽章でこういう構成なのがわりとびっくり。

シューベルトの以前の交響曲でちょくちょくあった「提示部で主題を展開しまくって展開部は短め」という構造に対する「ならいっそ展開部いらなくね?」という一種のブレイクスルーにも思えるが、楽曲自体は可愛らしい主題4つがそれぞれ展開しつつバトンを受け渡していく、演奏にもよるけどわりとすんなりした聴き応えのもの。

この展開部のないソナタ形式はたぶんロッシーニのオペラ序曲の構成から影響を受けたもので、シューベルトは今作より以前に2つの「イタリア風序曲」でもおなじ展開部抜きソナタ形式をやっている。

シューベルトと5歳違いのロッシーニはちょうどオペラをがんがん発表してヒットを飛ばしまくってる頃で、直近の2年間の作品には『泥棒かささぎ』や『セビリアの理髪師』も含まれる。

そういえばシューベルトロッシーニやイタリアの音楽からの影響について言及されるときたまにサリエリ先生もイタリア人だしみたいなことが書かれるけど、サリエリってたしかに出身はヴェネツィア共和国ながら音楽的にはグルックのオペラ改革を引き継ぐ立場でロッシーニのスタイルには否定的なんじゃなかったっけ。それはそれとして実際会ったら速攻仲良くなったらしいが。

 

1818年頃に4ページ分ほど残された交響曲の断片のピアノによるスケッチ。イギリスの音楽学者ブライアン・ニューボールドがオーケストレーションを施した断章を聴くことができる。

第1楽章は序奏つきでゆうゆうとした感じに進み、提示部の終わりでそのままスパッと途切れる。

アレグレット楽章(第2楽章か第4楽章に相当したと思われる)はロマン派に踏み込んでる感じもある第1主題後半のメロディが素晴らしいんだけどそれ以降はなんかぱっとしない。

 

1820年から21年頃に11ページ分ほど残された交響曲の断片のピアノによるスケッチ。これもブライアン・ニューボールドがオーケストレーションを施した断章を聴くことができる。

断片は4楽章分あって、第3楽章はほぼスケッチが完成している状態。

その第3楽章は第6番のいかにもベートーヴェンっぽい力押し系スケルツォから脱却を試みている様子がうかがえる。

他の3楽章はどれもだいたい提示部が出来上がってるような途中から迷走してるような具合。

 

1821年頃。旧全集における第7番。総譜へのスケッチは完成しているものの、オーケストレーションは第1楽章の途中までしか行われていない状態。総譜へのスケッチといってもピアノ・スケッチを経ずいきなり総譜に書き出しただけで、一本の旋律しか書かれてない部分も多いらしい。

自筆譜の最後にはでかでかと「Fine」の文字が書かれており、「うお〜っ」と一気呵成に書き上げて「よっしゃ交響曲完成っ!!!」まで行ったらそこで途切れちゃった感に溢れていて味わい深い。

オーケストレーションまで完成した部分にはこのあと書かれた「未完成」や「グレイト」に先駆けてトロンボーンが導入されており、想定される編成がシューベルト交響曲ではたぶん最大規模。

 

このスケッチをもとにオーケストラで演奏可能な状態に補完する試みは何度か行われていて、最初のバージョンはイギリスの作曲家ジョン・フランシス・バーネットが1881年に制作、1883年にロンドンの水晶宮で初演されたもの。これは次のワインガルトナー版より「シューベルトらしい」ものだったそうだけど、水晶宮の火事で楽譜が失われ現存しない。またこの版をもとに4手ピアノ版が制作されたものの、こちらも現存しないとか。

高名な指揮者で作曲家のフェリックス・ワインガルトナーが1934年に制作したバージョンは、1934年当時の「現代のオーケストラによる交響曲演奏」として過不足ないものにするために積極的に手を加えている印象。その結果シューベルト交響曲にしては響きが立派だったり、一部の展開がまるっと違ってたり。なかなか趣向の凝らされたオーケストレーションで聴き応えもあり、これはこれでいいものだと思う。ただまあどちらかというと「ライネッケの弟子で19世紀後半から20世紀前半に活躍した音楽家であるワインガルトナーの編曲作品」という性質が強いものではある。ワインガルトナーはシューベルト没後100年を記念して作曲した自身の交響曲第6番に「未完成」第3楽章のスケッチを下敷きにした楽章を挿入してたりも。

本命のブライアン・ニューボールドは1982年にこの交響曲の補完版を制作していて、こちらは可能な限り余計な色付けを避け残されたスケッチに忠実であるよう心がけたものになっている。もちろんシューベルト本人だからこそできる「シューベルトらしさからの逸脱」は望むべくもなく、ワインガルトナー版ほど聴き応えのあるオーケストレーションでもない。しかし限られた素材と既存の「シューベルトらしさ」の組み合わせでできるだけ素材の味そのままを活かしていて、これはこれで十分楽しめるものに仕上がっている。これからこの交響曲を聴いてみようってひとは録音の選択肢的にもこれ一択になると思います。

 

以下はニューボールド版を聴いた印象。

じっくりとはじまる第1楽章の序奏からして秀逸で、転調による音風景の変化がとても効果的。序奏終盤のふと音が途切れるとこがまたいい。第1主題はこれまで似たような傾向のヴァイオリンによる軽快なもので、どうも第1楽章から展開部のないソナタ形式っぽい。

第2楽章はなんとも優美な緩徐楽章で、たぶんABAB+コーダみたいな感じ。2つの主題はいわゆる「第1主題と第2主題の関連性が高い」系のやつになっていて曖昧さが醸し出されている。これシューマンへの影響が大きかったりしないだろうか。

第3楽章はスケルツォ楽章で、弦の合奏でガシッと主題を提示したあとおなじものを木管でやるとコロッとかわいくなる。毎度ながらスケルツォとトリオそれぞれに単体でソナタ形式の構造と提示部リピートそして展開部以降リピートがある(ということをすっかり忘れててしばらく「なんか終わったと思ったらまたごちゃごちゃ演りだしたな……」てなってた)。

第4楽章は軽快ながらたおやかさもあるヴァイオリンによる第1主題が良い。第2主題はこの第4楽章第1主題と第1楽章第1主題の動機を取り合わせたような感じ。全体的に部分から部分への橋渡しでの盛り上げ方がちょっとくどいけど、いつものことと言えばいつものことか。

提示部以降の構造が聴いた感じちょっと特殊で「展開部を第1主題中心に行ったうえで再現部の第1主題を省略してる」のか「自分が展開部だと思ってたのはだいぶごちゃごちゃ展開してるけどあくまで再現部の第1主題部分で、展開部自体は省略されてる」のか自分にはわからない。どちらにしてもシューマンの先駆的な構造なんじゃないかとは思うんですが。基礎的な知識もなんもなしにただ漫然と聴いてたやつが「曲の構造も気にしながら聴くと楽しかったりするのでは?」と急に思い立つからこういうことになるんですな。

 

全体的に主題の良さと転調の絶妙さからくる優美な雰囲気が印象的な楽曲になっていて、これまで以上に楽章間をつらぬく共通の動機や主題と主題の関連性が意識されているように感じる。第三者による補完という限られた素材をやりくりして仕上げなきゃならない作業の性質上そう感じやすくなってる側面もあるかもしれないけど、それを言ったらそもそも古典派におけるソナタ形式とかって「最初に提示した素材をいかにやりくりして立派な作品に仕立て上げるか」ってゲームみたいな面があるわけで。

あと「未完成」や「グレイト」ほどではないけど演奏時間が第6番までより長めで、作曲者の体型のごとくじわじわと作品の規模が拡大傾向にあることがうかがえる。展開部が省略されるのは展開部を用意するまでもなく提示部や再現部で展開しまくってるから、みたいな。

 

1822年。いわゆる「未完成」。シューベルトのどの完成済み交響曲より演奏や録音される機会が多いやつ。そういえば映画の『未完成交響楽』って観たことないんだけど、あれおなじような邦題でモノクロ時代と総天然色になってからの違う映画があるんだっけ。

オーケストレーションまで完了した演奏可能な状態の第1楽章と第2楽章、そして第3楽章のほぼ完成状態のピアノ譜と数十小節分のオーケストレーション済み総譜が残っている。つまりANGRAの1stの「Unfinished Allegro」はいやその楽章は完成してるじゃんとなるわけです。

 

完成品の2楽章はやたら深刻めいた第1楽章ともうどうにでもな~れの境地に至った第2楽章からなる。

第6番からいきなり今作に飛ぶと4年でシューベルトに一体なにがってなる作品だけど、ここまでの未完成3作を踏まえてみるとわりと納得感はある。しかし以前のように詰め込み気味に全体をまとめる構成からはかけ離れていて、ボソッとジョークを挟んだりするある種の余裕みたいな雰囲気も感じられない。

 

第1楽章はシンプルな低弦の序奏とそれに続く第1主題という有名な数十秒だけでこれまでとは違う空気をまとっていることがわかる。なんだろうメロディの感覚がそれまでの古典派的なものからもう一歩ロマン派的なものに踏み出していて、その結果現代人にとってより馴染みやすいものになった、みたいな面もあるんじゃないだろうか。

やさしげな第2主題がふと途切れて急激に荒れるD729序奏の応用編みたいなものも強烈。

そして展開部の、序奏とおなじ低弦からはじまりジリジリと切迫感を強めていきティンパニがやけに淡々と打ち込まれいよいよ…という、古典派の幾何学的な構築物としての展開部から離れたやたら劇的な展開。

ソナタ形式。こいつがアレグロじゃなくてアレグロモデラートで次の楽章がアンダンテじゃなくアンダンテ・コン・モートだからか、両者の速度設定をどのようにするか指揮者によってわりとまちまち。つまりANGRAの1stの「Unfinished Allegro」はいやアレグロじゃなくてアレグロモデラートじゃんとなるわけです。

第2楽章はABAB+コーダあるいはソナタ形式展開部抜き。

2つの主題はぼんやり虚空を眺めるようなほのあったかい第1主題と、もうどうしようもないことはわかってる物事に憂いたすえに呻きながらじたばたするような第2主題という、秀逸な旋律が多いシューベルトの緩徐楽章のなかでも特筆すべきもの。

コーダでそれまで第2主題への導入として出てきたヴァイオリンの音形から木管だけの第1主題に引き継がれ転調しつつ2回繰り返すとこはもうお手上げ。

 

doi.org

 

 

この交響曲は有名作だけに古今東西(おもに大西洋の西側東側)多くの人物によって補筆が試みられてきた。

1928年にはアメリカのColumbia Recordsがシューベルト没後100年を記念して「未完成補筆コンクール」みたいなものを催していて、入賞したフランク・メリックによる第3楽章と第4楽章の録音が残ってたりもする。このメリックによるもの含め、シューベルトが残した第3楽章のスケッチはとくに参照していない補筆作品も多い。

なおこのコンクール自体は途中で条件が二転三転して結局「未完成の補筆」はナシとなり、優勝にはクット・アッテルベリの交響曲第6番が選ばれた。アッテルベリは賞金としてまとまった額を獲得し、第6番は「ドル交響曲」とも呼ばれるようになったとかなんとか。

 

ここではとりあえずブライアン・ニューボールドとおなじく音楽学者のジェラルド・エイブラハムによるものを扱います。

これは「そもそもこの交響曲は一旦完成してグラーツ楽友協会に提出されたが、その後で『キプロスの女王ロザムンデ』の音楽を短期間ででっち上げる必要ができたため急遽使えそうな第3楽章と第4楽章の楽譜を返してもらい、結果散逸した」という説に基づいて、第3楽章を残されたスケッチから補筆し第4楽章に調性が一致し形式的にも交響曲の最終楽章にふさわしい『ロザムンデ』間奏曲第1番を当てはめたものとなっている。

キプロスの女王ロザムンデ』はヘルミーナ・フォン・シェジーによる戯曲で、彼女が台本を手掛け1823年10月25日にウィーンで上演されたカール・マリア・フォン・ウェーバーによる歌劇『オイリアンテ』の失敗を受けて、汚名返上を狙って1823年12月20日に初演された。

ということはつまり台本だの作曲だの振り付けだのリハーサルだの全部含めて2ヶ月未満という、ロッシーニドニゼッティがオペラを何日で仕上げたみたいな逸話で感覚が狂いがちだけどふつうに考えてヤバい状況だったわけで、シューベルトは劇付随音楽を完成させるとともに序曲をほかの歌劇から流用して急場をしのいだが、その完成させた劇付随音楽のほうにもなにかしら既存のマテリアルからの流用が含まれていたとしたら?と言われるとたしかに説得力ある気がしてくる。

加えてシューベルトのほかの未完成交響曲のスケッチの状態からすると全楽章のスケッチを終えてからオーケストレーションに取り掛かるのが彼の基本的なやり方で、第3楽章のスケッチが途中の状況で第1楽章と第2楽章をオーケストレーションまで完成させていたというもの違和感があるといえば違和感がある。もちろん「なんとなく気が向いて第1楽章と第2楽章を完成させたけどそこで嫌気が差した」みたいな可能性も十分あるわけですが。

ちなみに『キプロスの女王ロザムンデ』自体は見事にコケたらしい。

 

第3楽章はスケルツォとトリオの主題の関連性が特徴っぽい。

第4楽章は前述の通り『ロザムンデ』間奏曲第1番。ソナタ形式で提示部に4つの主題があり、展開部は新しい主題が登場しつつ第1主題を中心に行われ、再現部では散々展開された第1主題は省略され第2主題からはじまる構成になっている。はず。

この最終楽章としての間奏曲第1番の構成は、第6番の「主題が4つあって展開部は省略」、D729の「展開部を第1主題中心に行ったうえで再現部の第1主題を省略」という2つの次に来るものとしてわりと説得力があるようにも思えるんだけどどうなんでしょう。

最初に補筆版を聴いたときはさすがに第2楽章から第3楽章にはいると違和感があったし最終楽章はなんか取り留めがない印象しかなかったけど、あらためて第6番やそれ以降の未完成作品の流れでこの補筆版を聴いてみると「いや実際完成してたらあんがいこんなバランスだったんじゃね?」と思えてきたりもする。慣れたことで麻痺してるだけかもしれんが。

あとはじめは取り留めがない印象だった間奏曲第1番がけっこう面白くて、いつのまにか展開部で新しい主題が出てきたりコーダの最後の最後で取ってつけたように明るくなるのをわくわくしながら聴き進める感じになってたというのもあるかも。

 

www.hmv.co.jp

スイスの指揮者マリオ・ヴェンツァーゴは2016年にニューボールド=エイブラハム版に基づきつつ独自解釈を加えたあらたな補筆版を制作し自らの指揮で録音を行っている。

基本的にはニューボールド=エイブラハム版の内容に『ロザムンデ』バレエ音楽第1番(間奏曲第1番と共通の主題が使われてる)の要素を反映させた作りになっているけど、あきらかにヴェンツァーゴ自身の音楽家としてのひらめきを優先したような箇所もあってなかなかおもしろい。

第3楽章はニューボールド=エイブラハム版と共通の内容に加えて、トリオとして『ロザムンデ』バレエ音楽第1番後半のアンダンテ部分の主題も用いられていてる。つまりトリオが2つあって、あいだにスケルツォを挟まずスケルツォ-トリオ1-トリオ2-スケルツォという構成。他とくらべてぶっちゃけ音楽的に弱かったこの楽章に彩りを加えてる感じ。

第4楽章は間奏曲第1番が基本だけどオーケストレーション含めいろいろ違ってる。

初っ端からなんて説明すりゃいいのかよくわかんないんだけど、最初の序奏から提示部第1主題とその展開がバレエ音楽第1番とおなじで、それが一段落するとリピートしてあらためて序奏から再スタート、こんどは間奏曲第1番とおなじ展開で第2主題に繋がる構成になっている。

間奏曲第1番では再現部の第1主題が省略されていたけど、こちらは展開部の最後で一旦区切って再現部はしっかり序奏と第1主題からはじめる。

そして待ち受けるコーダにはこの版最大の特徴といっても過言ではない、おもむろに再登場する第1楽章序奏。…まあもうこれに関してはヴェンツァーゴさんがやりたかったのなら仕方ない、あれこれ言うのも野暮って感じ。

この版は第1楽章と第2楽章が「モデラートとはいえあくまでアレグロ」「コン・モートとはいってもあくまでアンダンテ」という急-緩の構成を強調した演奏で、第3楽章と第4楽章に『ロザムンデ』の美味しいとこを盛り込んでるのもあって素材の味そのままなニューボールド=エイブラハム版より聴き応えがあり、コーダのアレを差っ引いても嫌な人は嫌だろうけどこれはこれでなかなか良いものだと思います。

このヴェンツァーゴ版は彼のオフィシャルサイトでスコアが公開されてるらしいんだけど、現状サイトを開こうとするとなんかセキュリティの警告がでるので確認してない(どうせ五線譜ほとんど読めんのですが)。

 

1825年から1826年頃。「グレイト」の愛称で知られる、シューベルトが最後に完成させた交響曲。グレートとはいってもせいぜいおなじハ長調の第6番より規模がでかいよ程度のニュアンスらしい。

厳つい愛称と図体のデカさで誤解されがちだが本人はいたって快活、でもD729やD759しだいで7番になったり「シューベルトの第九」になったり8番になったりする振り回され気質で苦労人な一面もある。かわいいね

第7番D759があくまで未完成品であることを考慮すると前作第6番から今作の完成までに8年ほどかかってるのだけど、第6番の次に来る交響曲として見てもあんがい納得感があり、むしろD729からD759にかけてがちょっと別路線模索してましたみたいな雰囲気にも。

 

とにかくすべての楽章に歌心に溢れたすばらしい旋律の主題があり、全体が躍動感をもったリズムによって駆動していく楽しい作品。

旋律の良さとそれを最大限活用した転調や和声進行によるニュアンスの変化をリズムにのって積み重ねていく展開が中心となり、良質な主題をその晴れやかさだけでなく陰りや憂いそしてその移ろいまであの手この手で堪能することができる。

各楽章の構成的にはオーソドックスな古典派交響曲のものに回帰していて、回帰してるのに演奏時間はシューベルト交響曲のなかでも文句なしに最長の60分前後(リピート含む)。

わりと構成が近いベートーヴェン交響曲第4番で34分程度という枠組みで、そのベートーヴェン交響曲第9番(テンポ指示に従って演奏した場合)とおなじくらいの時間をかけているわけだけど、シューベルトの以前の交響曲のように「提示部に展開詰め込んで展開部はあっさり」みたいなアンバランスさはなく、どの楽章も各部のバランスがしっかり取れていて全体のフォルムはむしろ整っている。

ようするにすべての楽章のすべての部分が長いので「遠目にみるとスタイルが整ってるが近くでみると身体のすべてのパーツがデカイ俳優さんとかモデルさん」みたいということになる。

 

第1楽章はソナタ形式。序奏から提示部へ確実に熱量を高めつつ移行する様がお見事。ここは比較的最近の演奏だとあくまでリズムを維持しながら自然に移行することが重視される感じだけど、むかしの演奏だとおもいっきりリズムを崩してたっぷり歌わせたりする。

第2楽章。ABAB+コーダあるいは展開部抜きのソナタ形式。A部分あるいは第1主題には3つの旋律があって、なんとなく聴いてるとこの3つがひたすら繰り返されている気分になってくるのだが実際かなり繰り返されている。いやむっちゃ良い旋律だし楽章自体すばらしいものではあるんですけどね。

第3楽章はスケルツォ楽章。スケルツォとトリオそれぞれにソナタ形式の構造があり、提示部リピートと展開部以降リピートの両方が指示されている。最初のスケルツォ部分だけで第6番のスケルツォ楽章全体より長い。旅先で夕飯をご厄介になりたらふく食ったと思ったら揚げ物が出てきたときみたいな感じ。

第4楽章はソナタ形式。運動会かな?って勢いのノリノリでパンパカやるやつ、のようでいてなんかどうにも雲行きが怪しくてでもそれが表出するわけでも解消されるわけでもなく、最後まで内に負のエネルギーを抱えたまま終わってしまうような感じが無きにしもあらず。ベートーヴェンの一試合完全燃焼っぷりとはあきらかに異なる燻り方で、そういうところがだんだん癖になってくる。

たまに第3楽章のリピートは展開部以降のまでやってるのに第4楽章の提示部リピートは省略してる演奏があるのはなにか理由があるんだろうか。

 

第10番と呼ばれることもあるシューベルトがおそらく最後に着手した交響曲のピアノ・スケッチで、1828年11月19日の間際まで作業が行われていたと思われる。1970年代になって発見されたらしい。

スケッチは3楽章分あり、とくに第2楽章にあたるものはほぼ完成状態。

これもブライアン・ニューボールドによる補筆作品を聴けるが、彼の説では第2楽章と第3楽章のスケッチは完成済み、第1楽章は再現部が欠落しているがそもそもシューベルトのスケッチで再現が省略されているのはよくあることらしい。

正直英語の解説を読んでもいまいちピンとこなかったんだけど、ようするにほかの未完成交響曲のスケッチ以上に書きかけのとっ散らかった状態っぽい。またそれ故にほかの補筆作品以上にニューボールド自身の解釈が反映されていたり、逆にそれを避けた結果極端に音数が少なくなっていたりするのだと思われる場面がちょくちょくある。

 

第1楽章はソナタ形式。序奏なしで第1主題がはじまるが、いままでより田舎っぽいドイツ風な気がする。第2主題はより歌謡的(て言えばいいのだろうか)だけど、第2主題が出てきたあともわりと取り留めなくいろんな旋律と展開が顔を出す。第1主題と第2主題の橋渡し部分、展開部、コーダの前半がアンダンテになっている。

第2楽章はソナタ形式で、たぶん4つの主題がある。展開部がやたら音数少なくて弦だけみたいな状態になるのはなるべくスケッチに沿ったからだろうか。『冬の旅』にも通じる、静謐でいて内に抑え込んでいるものを感じさせる楽章で、単独でとりあげられるだけのことはある優れた音楽になっている。

第3楽章はなんだろう。いやほんとなんだこれ。途中まではあきらかにスケルツォ楽章で、せいぜいトリオが2つあるのかな?くらいな感じなのだけど、スケルツォ部分が戻ってきて以降なんか別のものがはじまってフガットとか挟みつつ大団円を迎えてしまう。

交響曲の標準的な第3楽章と第4楽章を結合して1つの楽章で済ませてしまう試みなのか、なんかスケルツォ楽章書いてたつもりが筆が滑っちゃったのか。シューベルトが残した最後の交響曲の最後の楽章がよりによってこれというのがおもしろすぎる。

 

 

録音

自分が聴いた交響曲全集をいくつかリストアップしてみる。ここでは「全集」だけ扱って個別の録音についてはまた別の機会を設けることにします(今までこのブログやってきてそういう別の機会とやらを設けたことありましたか……?)。

これはシューベルトに限った話じゃないけど、個人的な評価スタンスとして表面的な演奏効果を重視し、演奏上の表現と録音やミキシング工程での演出はこれを区別しない、あたりを心がけてます。つまりそれらしく文字を並べていても実際にはなんもわからん、ということです。

あと例の「アクセントかディミヌエンドか問題」に関しても今のところ演奏ごとの表現の違いの範疇くらいにしか意識してない(できてない)です。

 

  • ハンス・ツェンダー指揮南西ドイツ放送交響楽団(1999~2003, Hänssler)
Complete Symphonies

Complete Symphonies

  • アーティスト:F. Schubert
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: CD
 

一聴して地味だけど聴けば聴くほどよくなる。魅力的なメロディはしっかり浮かび上がらせつつその奥にがっしりした構築感があって細部まで描写が行き届いた解像度の高い演奏。一家に一箱。

最初にバラ売りでリリースされたときはウェーベルンの楽曲との組み合わせになっていて両者の作品が対比されるようになっていた。

あとツェンダーは『冬の旅』の管弦楽編曲なども手掛けている。

 

Complete Symphonies

Complete Symphonies

  • 発売日: 2012/11/13
  • メディア: CD
 

残響が深いので多少緩和されているが、全体的にシューベルトの細いフレーズをひたすら繰り返すやつをハキハキというよりガシガシやっていく、トルクの大きい駆動力のある演奏。ティンパニがゴツいうえに沈み込むのもいい。このティンパニに慣れると他の演奏のが物足りなくなりがち。

 

  • アントネッロ・マナコルダ指揮カンマーアカデミー・ポツダム(2011~2015, Sony
SINFONIEN 1-8

SINFONIEN 1-8

  • アーティスト:SCHUBERT, F.
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: CD
 

ともするとインマゼールより性急で攻撃的な一方で「未完成」第1楽章は往年のなんちゃら的なやつ以上にぐっと速度を落として演奏してみせたりもする、表現の振り幅が大きい意欲的かつ刺激的な全集。第10番のアンダンテ楽章も収録している。

マナコルダとカンマーアカデミー・ポツダムメンデルスゾーン交響曲全集も完成させていて、そちらもよかった。

 

モダン・オーケストラによる比較的ゆったり気味な演奏だけど、情感ずぶずぶ系ではなくむしろ楽曲に対して一歩引いて全体のバランスを見据えたうえで中庸なスタイルを貫いている感じで、そういった点でアバドやツェンダーの盤に通じている。「未完成」第3楽章のオーケストレーション済み部分を断章として収録。

ノットとこのオケはベリオの『レンダリング』などシューベルト関連の現代作品も交響曲全集と一連の企画として録音していてそっちもおすすめ。交響曲全集とそちらの録音をひとまとめにした豪華ボックスもリリースされてる。

 

Schubert: the 10 Symphonies

Schubert: the 10 Symphonies

 

もうすっかりおなじみブライアン・ニューボールド監修のもと、彼が手掛けた4つの未完成交響曲の補筆作品も含めて『The 10 Symphonies』と銘打たれた全集。文中でとりあげたニューボールド補筆版みたいなのは全部ここに収録されてます。

演奏はすっきりさっぱりでこれだけだとちょっと味気ないけど、あれこれ聴き比べるときの箸休めにちょうどいい、味濃いめの酒の肴にもう一品あるとうれしい浅漬けみたいなもの。

便利だしいろいろ聴いてみたいひとにはマスト。

 

ABBADO SYMPHONY EDITION

ABBADO SYMPHONY EDITION

  • アーティスト:SCHUBERT, F.
  • 発売日: 2015/07/03
  • メディア: CD
 

シューベルトの自筆譜を積極的に参照しリピートも厳密に守った当時としては画期的な全集で、印刷譜と異なる珍しい音形が聴けたりする。

むかし廉価盤CDで「未完成」と「グレイト」を聴いたときは正直軽くてヌルくて長いみたいな印象だったんだけど、あらためて聴くとピリオド楽器での演奏解釈をモダン・オーケストラに持ち込む今では一般的になったスタイルの先駆け的なことをやってるし、そもそも今の感覚では十分どっしり構えた演奏に思える。

アバドは『ロザムンデ』劇付随音楽の全曲録音も行っていて資料的にも大変ありがたいし演奏内容も面白かったのに加えて、晩年のモーツァルト管弦楽団との「グレイト」もすばらしかった。

 

Schubert: 8 Symphonies

Schubert: 8 Symphonies

  • 発売日: 2001/10/09
  • メディア: CD
 

いわゆる昔ながらの名演である「未完成」や「グレイト」はもちろん初期交響曲も十分立派な演奏で、こんなしっかりした全集が70年代初頭には完成していたにもかかわらずどこぞの出版社の名曲解説辞典とかは第6番までの交響曲を「習作の粋を出ない」とか「ベートーヴェンとくらべて云々」とか書いてたのかよってなる。

ベームバイエルン放送響と第2番のライブ録音も残していて、そちらもいい。

これより古い交響曲全集ってペーター・マークのとヴォルフガング・サヴァリッシュのくらいだろうか(どっちも録音開始はこのベームの「グレイト」よりあと)。

 

 

ところでこの記事ってむかしのホームページの「シューベルト交響曲のページ」とかならともかくブログだったら交響曲ごとに分割しとかないと読みづらくてしょうがないやつですよね。もう書いちゃったから投稿しちゃうけど